ぱっと広がった鮮やかな緋色に、束の間視界を埋め尽くされる。

血を吹いて倒れていく、隊服を着た名も知らない構成員の一人。

正確に素早く首の頸動脈上を滑っていく鋭い刃物の動きを間近にして、銀色の眼は感嘆を浮かべた。

その、なめらかに過ぎる殺人行動に無駄や躊躇いは欠片たりとも存在せず、切り口の綺麗さはそら恐ろしくすらある。

見惚れるスクアーロに、倒れ込んだ男の腹部に乗っかかっている小柄な、小さな体躯がこの殺戮者はまだ童子なのだと情報を送ってきた。

長く伸ばされた前髪で目は見えずとも、その金糸を透かして寄越される血に酔って正気を失った獣の殺気に、爛々とした輝きを想像するのは容易い。

子供はスクアーロのきらきらとした銀色を見咎めると、街中に並ぶ何処かのディスプレイで見たチェシャ猫とかいうキャラクターみたいに、にぃと口を吊り上げて笑った。

大きく弧を描いた口元を目撃してしまったスクアーロの脳髄を、しまったと根拠のない後悔が突き抜けて行く。

厄介ごとに擦り寄られる事の多い彼は、なんとなくそれに好かれた時と似たような悪寒が、咄嗟に捻った上体を含めた全身に駆けめぐるのに顔面を引き攣らせた。

スクアーロの回避に一瞬遅れて投げつけられたナイフが、銀髪の今まで在った空間を通過して壁に突き立つ。小さな手が行動を起こす前に、危機関知能力が急かすまま逃げを打ってみた鮫なのだが、その選択はどうやら正しかったらしい。

正確無比な軌道を暢気に見送る間もなく、スクアーロは武器を投じて即座に跳びかかってきた子供と交戦になるのを避けるべく横に跳び退った。

この場に複数いた同僚の間にそのまま走り込んだが、子供は邪魔になる生きた障害物は当然とばかりに排除しながらも、それ以上の意図をもっては目もくれない。

執拗に、スクアーロだけを追ってくる。

「う゛おぉぉい!嫌になるほど正しい判断するんじゃねぇよ!!くそガキがぁ!!」

吼えて尚も逃亡を続ける銀色の鮫は、狩猟者の優秀ぶりに興奮を覚える。

群れの中にいる、病気だったり怪我をしていたりする疲弊した弱者に真っ先に狙いを定めるのは鉄則であるとスクアーロは思っている。

なぜなら狩り漏らす可能性は低いかも知れないが、油断して思わぬ反撃に致命傷をくらう恐れが最も高いからだ。そうならない為にも、確実に息の根を止めた事を確認するのは重要である。他に意識を奪われ、失念していた相手に後ろからやられた、なんてよくある話だ。

追いつめられた瀕死者ほど、なにをしでかすか分かったものではない。

最もそれを踏まえた上で、敢えて嬲り遊ぶ愉しさも分からぬスクアーロではなかったが。

濃厚に生臭い血の匂いを漂わせている相手ならばより興奮を煽られる。強ければ強いほど、嗜虐欲をそそられる。

なによりも、闘争そのものに酔えるほど狩り甲斐のある希なる存在を相手取るは、最高に愉快だ。

この金髪の子供は一目でスクアーロの力量を看破し、且つ衰弱しきったその姿に己の優位を確信して、銀色の鮫を獲物と定めたのだ。

「だがなぁ」

盾にした男に子供のナイフが突き刺さる前に蹴り飛ばし救助してやって、正面から迫ってくる子供にスクアーロは牙を剥きだして笑った。

 

この金色の子供に知らしめてやろう。

 

手負いであろうとも、鮫は鮫であることを。

その兇牙が萎えることなど、敗北することなどはありえはしない。

スクアーロが剣を折るを認めたのは、敵わないと感じたのはザンザスただ一人。

銀色の鮫は数え切れないほど死闘を繰り返してきたが、たとえどれほど力に差がある相手。今の自身の実力では無理だろうと推測される相手であっても、手傷を負っていようとも、諦めたこと、負けを覚悟した相手など一人としていやしない。

ひとつのひとつの闘争で、幾度もの死線を見た。

鮫の牙は生え変わる度に、以前よりもその強靭さを増すという。まさしくそのようにして、怖れを知らぬ剣士は幾つものデッドラインを越え、強さを手に入れた。

その最たるが、前ヴァリアーボスでもある剣帝との決闘だ。

剣の帝王とさえ讃えられたテュールすら倒し、最強の呼び名を奪い取るほどまでにスクアーロは闘いの中で成長を遂げた。

それでも、まだ足りない。

スクアーロは満足できない。

鮫の主は、鮫よりも尚一層、遥かな頂きにいる。

剣を捧げた主に相応しく、かの人の背に着いて行けるよう、貪欲に、傲慢にさらなる強さをスクアーロは求めていた。

だから、負けるわけには行かないのだ。

敗者など、ザンザスは必要としないから。

 

「俺が弱ってようが、テメェじゃまだ役不足だ」

 

悔やむならば、屠れると見誤った己の観察眼の未熟を悔やめ。

凄惨に恫喝し、スクアーロは体調が万全ならば幾らでも付き合って、嬲って遊んで楽しんだだろうに、惜しいなぁと自身の不調を呪いながら、手合わせするのがすこぶる愉しそうな、小さな切裂き魔に向かって脚を突き出す。

爪先や踵ではめり込んで後々大変だからと靴底全部で、内蔵破裂を起こさないように大分加減して柔い子供の腹を蹴ってやった。侵入者に対するならそんな甘い真似はしないが、この暴れ台風がヴァリアーの隊服を着込んでいるのを認めたからこその配慮である。

小さな身体はあっけなく吹き飛び、少年が狙い定めた通り、隊員の一人にぶつかって止まった。

人体がクッションになって、壁に激突するよりもずっと衝撃は少ないだろう。

案の定たいした怪我もないようで、子供はすぐに倒れた身体の横に手をついて起きあがった。が、確かにダメージを喰らっているらしく、ふらふらと座りこんで思い通りにならない自分の体を不思議そうに見下ろしている。

「う゛ぉぉい!ガキ!正気に戻ったかぁ?」

消え失せた殺気に、血と殺戮への興奮が冷めたらしきことを感じ取ったスクアーロは、熱に軋む体を引きずって子供の前に立つ。ナイフを取り落としたのにも気づかぬ様子でぼんやりと見上げてきた金髪が、天井へ釣り下がったシャンデリアの光輝を眩しいほど反射する。

人のことを言えないような頭髪をしているくせに、眼に痛いと内心毒づいているスクアーロに合わせていた子供の視線が、徐々に険悪さを帯びてきた。

忘我の縁から、現状を把握するまでに意識が戻ってきたのだろう。

「はぁ?なにお前。王子に対してすっごい失礼。むかつく」

その愛らしい唇から飛び出たのは、その愛らしさとは甚だ不釣合いな暴言であったけれど。

鼻に皺を寄せた不機嫌丸出しの顔にはこの上なく似合っている。

生意気な罵倒にこのガキャぁと言わんばかりに頬を引きつらせる、自分よりは年嵩だが随分と若い。先日顔合わせを終えたばかりのヴァリアーのボスと同世代くらいの銀髪銀眼の痩身を値踏みしながら、ベルフェゴールは意識を跳ばす直前に見つけた切り傷がある筈の右頬をこすった。

ほんのちょっとだけピリつきを感じるが、それだけ。

薄皮一枚裂けた程度の傷口は大した血の滲みもなく、もう乾いてきている。

触った手を眼前に持ってきて、しげしげと眺め透かせつしてみても、血痕はついていない。

それでも、怪我をしたことさえ気づかずに任務を完遂して本部に帰ってきた自室への道すがらに、窓ガラスへうつった自分の顔に発見した確かな赤い筋に、ベルフェゴールは狂気に呑まれてしまった。

記憶はないが、ともに居た初任務からしばらくは同伴を義務づけられた格下の同僚相手に暴れたのだろう。

ただ、なんとなくぎらぎらとした輝きを放つ銀色を追いかけていたのを、ベルフェゴールは覚えている。

このまま白の中から噴出する、真っ赤な血を浴びれると心躍らせた瞬間、腹部に重い衝撃を受けたことも。

いまもずくずくと感じているお腹の鈍い痛みに、浸っていた酩酊を破られたのだ。

童児は取り戻した冷ややかな思考に、段々と込み上げてくる不快感に完璧に臍を曲げた。

それはあっけないほど簡単に伸された事に起因する。

(隙をつかれて、蹴り飛ばされた?王子が?)

殴り飛ばされたのではないことは感覚でわかる。そうとるには痛みを覚える範囲が大きい。

だが、殴られたにしろ蹴られたにしろ、そんなみっともない経験をしたことがない。

いつも他愛なく崩れ落ちるのは、ナイフを振り上げられた相手だった筈だ。

(あんなの、王子の記憶違いに決まってるじゃん)

こんな貧相な奴相手に、ありえない。

そう酷評するも、ベルフェゴールは一見ほっそりとしたその体躯が、その実鍛え上げ引き絞った筋肉を過不足なく着けて、尋常ならざる能力を有している事が分かっていた。

そうだとして、どうして唯々諾々と敗北を受け入れる事ができるだろう?

王子の高い高いプライドが、許さない。

 

手負いの相手に負けるなんて。

 

ベルフェゴールは幼いながらの慧眼で、正気に戻った今も一瞥してスクアーロの状態を正確に把握できた。

だからこそ静かに激昂し、子供は手元から姿を消しているナイフの代わりを、服の袂から素早く滑り出させた。

のだが、どこぞから取り出した新しいナイフを投げつけられても大人しく受ける言われがないスクアーロは、自殺志願者以外が取る行動の当然の帰結として、重い腕を払ってそのナイフをたたき落とす。

「なに王子に逆らってんのさ!敬いへつらって王子の望み通りにしてろよ!」

平然と、あまりにも簡単に攻撃を阻止されて、ベルフェゴールは癇癪を起こした。

「あのなぁ、王子様」

その甲高い罵声に、体調不良のラインナップに頭痛をプラスされて、少年剣士は陸に打ち上げられた鮫よろしく撃沈する。

予測していたが、(本人曰く)王子様の機嫌がますます損なわれて煩いことこの上ない。

スクアーロとて(前髪に隠れて見えないが)柳眉を逆立ててぎゃんぎゃん喚かれたくらいで、自分よりももっと年下の正真正銘のガキ相手にムキになるのは情けないと分かっている。

が、今の彼に忍耐というものは存在しなかった。

もとは持っているのだが、今はどこか遠くへ押し流されている。

結果、とっとと部屋に帰ってベットに潜り込みたいこと仕切りの銀色の鮫は、手早く済ませようと少々大人げない行いに出てしまった。

スクアーロはがしりと豪奢な金髪を鷲掴んで(小さな形の良い頭部はまだ己の手には余るので)、ベルフェゴールを引きずり上げる。膝立ちにさせた事によって縮まった幼い丸っこい輪郭の端整な顔との距離を、さらに腰を屈め限りなくローにして。

「てめぇは俺に負けた。敗者が勝者に逆らうな」

少年は不愉快を宿してぎらぎらと瞬いている銀色の双眼で、小さな切裂き王子さまを威圧し、真っ向から恫喝してやった。

その迫力にしばし押し黙った子供は、しかし諦め悪く反抗するのを止めない。

「王子、負けてなんか無い」

頑是無く繰り返す負けん気も、此処までくればいっそ見事といえるだろう。

常人ならば失禁した挙句気絶する。

玄人なら脂汗を滲ませ、硬直し後ずさるだろう、鮫の獰猛な恐喝に耐えて己の意志を押し通すのだから。

「負けたんだよ。理解しろ」

「負けて無いったら、負けてないんだよ!!王子が負けるなんて馬鹿なことあるわけ無いじゃん!!」

冷ややかに見下し、淡々と現実を突きつける銀色に敗北を悟っているが、プライドが邪魔して素直に認められない子供は頑強に負けてないと喚きちらす。

その根性は感心に価すると認めたスクアーロであるが、本当にいい加減ぶち切れた。

「なら死んどくかぁ?そうすりゃ誰が見てもテメェの負けだって分かるぜ」

ぱっと掴んでいた毛髪を手放し、僅かたりとも持ち上げる事をしなかった、垂らしたままでいた剣をすらりと胸先に掲げる。

音もなく眼前に突き出された、持ち主の色彩と同色の刃。

あまりにも物騒な輝きに映る、自身の顔貌の頼りなさに、ベルフェゴールの端を蝕んでいる心許なさが勢いを増した。

「王子は…」

それ以上は言葉が出てこない。

ふっくらとした唇を悔しさにぐっと噛んで赤くする子供に、幾らなんでも大人げなかったかと嘆息して、スクアーロは剣をおろす。反論をやめてうなだれる子供に鮫は慙愧の念に駆られ、その痛々しい表情を直視していられずなにか誤魔化すように首を巡らせた。

途方に暮れた銀色の虹彩に少し離れた場所に落ちているキラリと光る品物を発見して、本当はもう1ミリたりとて動きたくなんてないのだが、彼はそれを手にする為にいかにも億劫そうに其処まで赴いた。

右手に拾い上げた物をもって子供の側に戻り、スクアーロはそっとその豪奢な金糸の上に態々取りに行った物を乗せてやる。

硬く冷たいなにかを置かれ、咄嗟にベルフェゴールが其処に手をたる。

己の頭上に、蹴り飛ばされた際に落ちた銀色のティアラが戻ってきていた。

あるべき所に収まった、戻ってきた大事なティアラ。

びっくりして金色の奥で呆然と眼を見開く子供に向かって屈みこみ、スクアーロはふてぶてしく頬をゆがめ、どこか悪戯っぽく囁いた。

「認めちまえよ、王子様。素直さも美徳だぜぇ?」

やれやれと苦笑する、ティアラと同じ色にきらきらと輝いている少年。

ちかちかする眼を庇うかのようにぱちぱちと瞬きを繰り返し、ベルフェゴールは暫し逡巡したが、そっと戻ってきた冷たい冠を撫でて、こくりと頷いた。

「おう。ガキは素直が一番だからなぁ」

破顔したスクアーロは、なんの役にも立たなかった王子様の随行員が話し掛けたそうにしているのを端っから無視することに決めている。一件落着をみたところで、今度こそ部屋へ帰ろうと動いた気力体力共に枯渇している剣士は、ぐいと着衣の裾を引っ張られてたたらを踏んだ。

疲労と油断で危うく転びそうになり、ここまで誤魔化したのに冗談じゃないと顔色をなくした痩躯の少年が怒鳴りつけようと振り向いた先で、金髪王子が口をへの字に曲げている。

「王子置いていくなよ」

「あぁ?」

「王子置いてくなんて、ちょー失礼」

胡乱気に問い返せば、ちっちゃな拳にぎゅうと力が込められ、肩近くにヴァリアーのエンブレムが刺繍されている隊服でもあるシャツがそのちまっこい指の中でしわくちゃにされる。これを振り切るのは難儀しそうだとスクアーロは悟り、力なく了承を返してベルフェゴールの手を取った。

「ちょ・・・っ」

その改めて触れた皮手袋越しの手の熱に、ベルフェゴールが驚愕の声を上げようとした。その声を衰えていても鋭い眼光で制し、封じ込めた意地っ張りな鮫は稚い手を引いて促す。

賢い王子様がその意をくんで、無言で着いてくるのはありがたい限りだった。

スクアーロはもう面倒な厄介ごとに巻き込まれまいと、剣呑に話しかけるなオーラを周囲に発して事後処理の判断を求めようと近寄ってくる隊員を蹴散らし、急き立てるような大きな歩幅に小走りで着いてくる手を繋いだ切裂き王子さまに対し、わりいなと配慮のなさを心中謝りながらずかずかと大股に進む。

普段だったら抱き上げてやるところだが、生憎とそんな余裕は残存していないので、自力で動いてもらうしかない。

まぁ、もっとも?ちっちゃな王子様はほとんど細身だが背の高い少年に引き摺られているような様相になっているが。

「ねぇ、名前なんてーの?」

事故(スクアーロにしてみればそうだ!)発生現場から離れしばらくした所で銀の鮫はベルフェゴールに話し掛けられたのだが、振り返る事すら億劫だった。それでも無視しては煩くなるだろうなと、前方を向いたまま律儀に応えてやる。

「スクアーロ。スペルビ・スクアーロだ」

どちらも本名と言い切れない、徒名みたいなものだった。

産まれたときに着けられた本名は、母親がくたばった時に一緒に墓に埋めてお終いにしてしまったので、スラムで暮らしていた頃いつの間にかそう呼ばれていたスクアーロをそのまま名前にしていた。

スペルビの方は、ザンザスに着けて貰った。

剣帝との決闘後、失血と疲労に意識を混濁させながらも、命のやり取りへの覚めやらぬの興奮にぎらぎらと目を光らせ、俺の勝ちだ。見ていたか御曹司と傲慢に心底から愉快気に笑って見せたスクアーロに、てめえに相応しい名前だとヴァリアーの隊服を初めて着用した日にザンザスが投げて寄越したのだ。

スクアーロをスペルビと命名したのに付随させて、ザンザスはボスに就任してから己で新しく選んだ幹部にも悪魔の名を授けた。

この悪魔の名は、コードネームの意味合いが強いのだが、ザンザスの家臣である証とも言える。

「ふうん」

スクアーロのスペルビという名を聞いて、なにかを悟ったのか、含んだような相鎚をうって、子供は少しばかり声を弾ませ、楽しげに名乗った。

「王子はね、ベルフェゴール」

聴いて、スクアーロは咄嗟に振り返って子供−ベルフェゴールを凝視していた。

王子と言うから、さぞかし長ったらしく格式高い名前がずらずらと続くと思っていたら、自分よりも短い。

いや、そんなことはどうでもいい。

重要な意味をもつ、その名前。

振り返りきった瞬間に襲った発熱による神経の軋みに、悲鳴を洩らしそうになったが、一瞬躰のことなど忘れてしまうほどに驚いた。

「ここに入ったとき、ボスに貰った。それ以外は王子もう忘れちゃったよ」

うししと品のない笑いを零す子供は、それでもやっぱりどこか高貴だなと霞がかかり始めた思考で感心するスクアーロは、それではこのガキは同僚かと、先程の動きを反芻して納得した。

「王子とスクアーロの名前って、お揃い?」

「そんなもんだぁ」

しかし、そう頷くスクアーロはザンザスから新しい幹部を任命したとは聞いていない。

知らされてないことに些か不満を募らせ、少しばかり腹を立てた傲慢な鮫は、御曹司が帰ってきたら問いたださければならないと、朦朧とする頭に留め置いて顔を前方に戻した。その際にも当然痛みはあったのは、追記しておこう。

「あのさあ、スクアーロ。本当だったら王子の名前呼び捨てにするのなんて、ボスしか駄目なんだけど、仕方ないからお前にだったら許してやってもいーよ?」

「そりゃあどうも」

偉そうに最大限の好意を示してくださった王子さまに、スクアーロはやる気なく謝礼を返したが、そんな態度をとられたのでは王子様の腹の虫は納まりがつかない。

「もっと感謝の気持ち込めろよ!」

ベルフェゴールはぐいぐいと握る手に力をこめて、怒気をあらわし無礼を咎めた。

へたをしたら腕を振り回しかねない程かんかんなのだろうが、もうちょっとでも動きたくなくて、休む事だけを考えている死に体の鮫からは、王子さまのお叱りすらもすり抜ける。

本当にこれ以上は無理だ。

マジで逝く。

足だけはきちんと働いているが、スクアーロの全身には間違いなく死相が浮かんでいた。

後でまた謝るから今は取り敢えず気絶させてくれと、疲労困憊の少年は自室のドアを潜って居間を突っ切り、寝室に飛び込んで脇目もふらずにベットに倒れ込んだ。

勝手に揃えられていた家具のひとつである、でかくて大きなベットは高価そうな光沢を放つ木フレームに相応しく、乱暴に落下してきた軽い体重二つにも抗議の軋みをあげず従順に受け止めた。どころかむしろ歓迎するように、スプリングの効いたマットは大きく波打っている。

「ちょっと!!王子窒息死させる気!?」

ほぼ垂直落下の巻き添えを食らい、羽毛の詰まったふかふかの布団に埋もれてすぐ傍で抗議するベルフェゴールのくぐもった声も、スクアーロには遠くにしか聞こえない。

「うるせぇぞぉ。ベル」

いまいち馴染まない肌触りの良いカバー類は、御曹司の好みで総シルク。

やわらかなシャンパンゴールドに鼻と口を塞がれてばたつく子供を、適当に伸ばした手で救出し、いよいよ距離を測るのすら怪しくなってきた、目蓋が閉じかけの眼でどうにかこうにか探し当てた金色をわしわしと乱暴に撫でてやる。手袋越しにも心地良い冷たさをよこす、膚に突き刺さった尖った金属は、王子様のティアラだろう。

「今日はもう、お前も寝とけや」

スクアーロは胸元辺りにある自分よりもずっと低い体温を抱き込んで、念願叶ってようやく意識を失った。

一方、腕に囲われあまり自由に身動き取れない王子さまは、鞴のように大きく喘いでいる胸を叩いても抓っても、大声を上げても目を覚まさない傲慢な鮫に、むうっとほっぺたを膨らませ、いわば置いてきぼりにされたに等しい扱いに不平を訴えた。

「なにこの状況」

しばし孤軍奮闘するも、一向に改善されない体勢につかれて、童子はぱたりと抵抗をあきらめ、ちょっと上がった息を深呼吸して整える。それに鼻腔を擽る慣れた血臭に、なんとなく心地良さすら覚えて困惑する。

「しかもなんだよベルって。そんなふうに呼ぶのまで、王子許してない」

名付けられて時間もたってないから当然なのだけど、初めての呼び方。

体温が上昇しているスクアーロに抱かれているのは、まるで暖炉の前に陣取った時のように熱くて、息苦しくさえあるのに、同じように離れたくないと思う。

その熱から逃れてしまえば寒さに凍えてしまうなんてこと、幼いベルフェゴールだとて知っているのだ。

「ベルなんて」

 

なんて、甘ったるい響き。

 

悪魔の名称には不釣合いな、可愛らしくって柔らかさばかり目立つ省略だ。

どくどくと煩い心臓に落ち着かなくて(ねぇ、これはどっちのもの?)、ぽつりと呟いたベルフェゴールは、もぞもぞと不自由を強いられた中で身動きする。

 

だけど、嫌ではなかった。

 

苦しそうな荒い呼吸も、熱い肌も体温も、気持ち悪くないし、嫌じゃない。

呼吸に大きく上下している薄っぺらい胸板に手を突っぱねて、固定されたようにビクともしない骨張った熱い腕の下をどうにかかいくぐり、頭をずり上げた王子さまが間近でまじまじと観察する鮫の顔は、目尻は吊り上がっているけれど、意外なほど可愛いかった。

「睫まで銀色だし」

どこもかしこも色素が欠乏して、まるで漂白されたような白さが眼に痛いくらいだ。

白ばっかりの部屋に居ると、人間は狂う。

なら、これを間近に置いてずっと生きる人間も狂うのかなと、もうとっくの昔に狂っている切裂き王子はどうでもよく考える。

だから怖れる事無く、その銀色を見詰めて、素直にその存在に見惚れてしまう。

我慢しきれずに背に回された細くって固い腕に挟まれている手を随分苦労して引きずり出して、ぺたぺたと熱っぽいのに白い顔を触る。

ちょっと癖があるけど、わりかし造作もきれい。

王子のティアラと同じ銀色の髪も、さっき見た瞳もすごく気に入った。

 

「だってそれは王子のじゃん」

 

銀色は、王子の王子たる証だ。

王子さまの正当性を、血統を雄弁に示すモノだ。

 

「だから、スクアーロは王子のね」

 

ベルフェゴールは殺してしまった王妃様とまったく違う、なんにも塗りたくられてない、色の薄い唇に、ちゅっと吸い付いた。

人工的な味も匂いもしない少年とのキスは、熱っぽくてくすぐったくて甘くって、ふわふわする。

お気に入りのぬいぐるみに抱きついた時のような柔らかさと、陽だまりの匂いがした。

血を浴びて闇に潜る鮫であるのに変な話。

でも、悪くない。

窓から差し込む光を浴びて、お昼寝するときのような心地になる。

 

「王子はさ、お休みのキスがないと寝らんないんだよ。スクアーロ」

 

だから、今度から王子が寝るときはしてもらうかんねと宣言して。

幼い怠惰の悪魔王子は満足そうに、にんまりと笑って、傲慢を冠された年上悪魔の腕の中で大人しく目を閉じた。

 

 

(がりっがりで全然柔らかくなんかないのにさ、安眠できるんだからお前ってば不思議すぎ!)